みやうちふみこのブログ

日々の思い こぼれないように 

生活不適応者

まぶたの老化も早朝は少しは若返るようだ。

詩と思想6月号」も一色真理氏の巻頭エッセイ「H氏賞受賞の頃」ぐらいまではスイスイ読めたのだけれど、、だんだん小さな文字が見えにくなってきて危うさを感じ、次に興味のあるページから読むことに。で、詩論・未来詩への視座・伊藤浩子氏の野村喜和夫ロング・インタビューダイジェストを」を読んだのだけれど、興味津々。興味深くというのは、その質とかレベルとかは大違いなのだけれど、いろいろとわたしを安堵させてくれる話題、いや、ものごとのとらえ方が織り込まれていたから。子育て中は、それでも幼稚園の役員もしコーラス部にも入ったり、、子どもが小学生になればPTA の役員も引き受けた。それが子供達の成長とともにと言うかいろいろな体験からなのか、このごろは、ひとりで過ごす時間が寂しくないこともないけれど快適。空を見て雲を眺め風に吹かれ鳥たちのさえずりに満足している。それを社会不適応者と呼ぶならそうかもしれない。

ご近所での立ち話も苦手だ。、、でもなんとか暮らしていたはずなのに、ある日、たとえば、お向かいに新住民が越してきたりするとそれまでの暮らしとは違いが出てきたりする場合もあったりする。それで、立てこもりたくなってしまったり胃痛に悩まされたりも。朝早く新聞取りにと玄関を開けると、まるで待ち構えたように数秒後お向かいさんのドアが開いたり、、背後から下りてきたり。はじめは男の後ろに女が一緒についてきたりしていたけれど3日目頃からは男がひとりで、、俺も新聞取りにきたんだぞ、と言わんばかりの態度に辟易。とうとう4日目頃に「わたしは不親切」のレッテルを顔いっぱいに貼り付けた。気をひく様に?大きな音を立てて3時間も洗濯機をまわしている女に苦言を呈した翌朝の男は、ドアを開け、「おはようございます。」のあいさつに鼻先を突きつけ無言で出勤?階段にはあれこれ落としておいたりしたり。60年生きてくれば子どもだって大人になる計算だ。死にたくもなるけれど死んでたまるかと、仕方なく社会的不適応者はますます色濃くして立てこもる。

ご近所さんと立ち話、早朝劇をご披露すれば良いのだろうけれど、そんなこと、もったいなくてただでは演じられないのだから、まぁあまり詩作とは違うけれど生きるための日常生活においてもあまり深刻に考えないで楽天的に、、その場その場成り行きに任せるというか、、そんな積み重ねが必然なのだろうと、お陰様で思考変化してみる余裕も生まれたように思う。そんなこどもを”可愛いじゃん”と思える大人になれたら問題回避

、生々堂々社会的応者の顔が出来るのだろうけれど、これも成り行き 。あなたについている「社会不適応者」のレッテルは、そのまま、が、周囲を平和に保つ礎になるのだとは、、大げさすぎるだろうか。