みやうちふみこのブログ

日々の思い こぼれないように 

夢日記を書くのが夢

今夏初、朝顔のたねを見つけた。
今日はkayoの休日。
8時過ぎても起きてこないので声をかける。
すでにわたしは家事すべてかたづけて
一日のんびり過ごすスタンバイ完了。
で、真実は、夢物語のテクニックを磨こうという
計画だったのだが、事実はついつい「詩と思想20
18年詩人集」に読みふけったしまった。
そしてなかなか面白い箇所を見つけたのだ。
たとえば、
酒木裕次郎さんの作品「灯りを求めて」を読んでいくと
 *目が覚めたら荒川沖ではないか
 *またやってしまったか
   (*「灯りを求めて」より)
で始まって、、我孫子駅とか利根川とか土浦とかつくば市とか水戸駅とか、わたしにとって、なつかしい地名がでてくる詩。
どうやら、裕次郎君は夜遅くの電車で乗り過ごしてしまたらしい。戻る電車は始発の5時20分の上野行なのだと、その時の感情を詩に紡いでいるのだけれど、隣のページに移ると「母の元気な頃の夢を見た」とわたしの詩がつづくのだ。偶然かも知れないけれど、なんというのか、こんなところに、編集委員さんの、、手腕と言おうか、苦心と言うのか心の内が感じられたりしてうるうるしてしまうのだ。ここのページは、わたしだけの特注って思えたりするからおかしい。
心の中にふるさとを封印しようとなるべく触れないようにしていたこの頃だっただけ、なおのこと郷愁にかられた一瞬・・だった。と、 そんなことを言っておきながら、
岩佐なおさんの作品「庭」と塩野とみ子さんの作品「むぎふみ」は隣り合ったページに、まるで二人の合作・一つの作品のようにも、わたしには読めた。岩佐なおさんの「庭」には兄の好きな「梅とゆず」が出てきて、次のページにつづく塩野とみ子さんの作品「むぎふみ」は、かってわたしも書いた詩のタイトル。これこそ偶然と思いながら、、他者の作品を読んで
なつかしさに浸る場合と、、他者の作品から、、、心の裏側のあたりに鈍痛を感じたりする場合もあるのだと知った。もちろん、それだけに優れた作品と言えるのだとも思う。しかし、、全く、こころとはやっかいなものである。
そして、なお思うのでした。
わたしも夢日記を書きたい、と。
それが、わたしの今の夢。