発泡スチロールの箱を開けると
つめたい水の中に
レンコンと蓮の葉っぱが浮いて
長く茎のついた蕾と実が出てきた
歓声をあげて わたしは
蕾の茎を水切り
ペットボトルに挿したのは
一昨日の昼頃
昨日の朝 そばに寄ると
蕾のガクが はらりと落ちた
潤いのない蕾は
ふっくら閉じられたまま
それでも、気配はうすい桃色
急いで蕾を逆さまに切口から水を注ぐと
蕾の付け根から水滴があふれた
今朝は 少し変色した
外側の花片が はらりと落ちた
指先でそっと蕾の花片を開いていくと
先端が淡~いピンクの蓮の花
どきっとして手を放すと
もとの蕾の姿に戻った
また、切り口から水を注ぐ
また蕾の付け根から水滴があふれた
そんなことを繰り返しながら、
岡島弘子さんの詩集「洋裁師の恋・水を駆ける」に
想いを馳せた。
上手く言えないけれど、彼女は詩の中で
詩が生まれると言う事実は それほどまでに深い悲しみに
出会った証なのだという風に紡いでいる。私の場合もそうだ。
けれど、少数でもいいから 反対の場合にも詩を生み出す要因
になったなら良いのになどと思い、ながら、わたしも、そん
な深い深い恋をしてみたかったと、淡い淡い恋ばかりを思い
そのころを懐かしんでいる。真剣さ欠如が要因。
蕾のままの蓮の花びら
明日は摘んで
詩集に挟んでおこう