今年は寒いのだろうか、まだウグイスの鳴くのを聞いていない。
そろそろだろうか、と、今朝も、あたたかなやぶの見える、北側の窓の結露を拭いた。
今日11日は東日本大震災から10年になるという。
あと数日で17回目の母の命日が来る。
母は知らないで逝った。
生きていたら、なんて言っただろう。
昨年10月1日刊行、モノクローム・プロジェクト、ブックレット詩集㉑『詩集「母の詩(うた)」みやうちふみこ』の、2004年3月11日のページを開いてみた。丁度、母のと側に私もいた。母との会話を主に、ここに抜粋、記しておきたい。
3月11日、昨夜は北浦湖畔壮に一泊、朝、女将さんに病院まで送っていただいた。
9時20分。(私)おはよう。(母)おはよう。
あなたと認識してか否かは不確認。9時30分身体清拭。
10時30分巡看、手足が冷たいからと湯たんぽを入れてくれた。
地震。12時、昼食。5分粥飲み込めない。
愛子さん気になってもどってくる。 愛子さん帰る。
口中清拭。とてもいい笑顔。
(母)お薬は苦いの。
14時30分、抗生物質追加。このころから歌らしいリズムを発しはじめた。
(母)「明るく生きる道を・・・明るく生きる道を。」と何度も繰り返す。
「ええ、わたしに?どうして?」と、その時あなたは思ったそうだ。
14時40分、うとうととはじめる。
時々歌いながら?うとうとと気持ちよさそうだ。文子記。(智子)
美子さん帰る。
17時20分、O先生、酸素が少し少ない、酸素マスク使用。水枕。
3月12日、0時 白湯、美味しそうに飲む。それまでわからないことばかりつぶやいてい
たのに、あなたを見て、
(はは)あなた誰?と問う。
(わたし)ふみこさん。
(はは)ふみこさん?
(はは)あなた誰?
(わたし)ふみこさん。を
繰り返しなが束の間の眠りについた。
それが、母と交わした最後の会話になった。
4日後、母は逝った。
あなたは今、明るく生きているのだろうか。
あの頃よりは、ずっと明るく自由だと思っている。