みやうちふみこのブログ

日々の思い こぼれないように 

お墓参り

 義姉の初月忌と母の18回目の命日を前に、平日の昨日、かよちゃんと二人でお墓参りに行ってきた。早朝に団地折り返し場のバス停に着くと、鶯の美しく鳴く声が聞こえてきて 思わず、あウグイス、と声に出してしまった。一足違いでバスが出た後だったので、その時バス停にいたのは、わたしたちを含め3人だけだったけれど、他の二人は何の反応もな示さなかった。もしかしたら、そこではウグイスの鳴くのなんて、もう、珍しく無かったのかもしれない。まるで、お上りさんみたいだ。同じ団地でもこんなにも環境が違うものなのか。ここにいては、まだウグイスの初鳴きは聞いていない。

  

前後してしまうけれど、実家の庭にいてもウグイスの鳴くのを何度も聞いた。でも、お墓でも、母の実家でもウグイスの鳴く声は聴かなかった。余り離れていない距離で、こんなに違いがあるなどと今まで思ったことはなかった。墓地がどんどん増えているから、周辺の環境がウグイスの生息を妨害しているのかとも思う。だが、母の実家周辺はあまり変わっていない。そこでは昔から、ウグイスの鳴くのをきいた記憶はなかった気もする。なんとも不思議。新しい発見だ。鳥たちの生息にも、それぞれ厳しい条件があるのだろうか。

  
 実家までは、東京駅から鹿島方面行き高速バスで1時間前後、潮来で下車。そこから車で40分余りはかかるだろうか。タクシーだととても簡単だけれど味気ないしよろしゅうない。以前は、潮来の義兄さんが当たり前のように迎えにきてくれていたのだが、もう高齢で車も手ばなしている。感謝を忘れてはならない。今回は、、鹿嶋市に住む従兄の長女花子さんが迎えに来てくれていた。従兄が叔父さんのような存在だったからか、、従兄の子供たちとは従姉弟のような繋がりで接してきたように思う。戦争中、兄と私はお世話にもなっていたからか、その絆はより深いとも感じている。道すがら、潮来の姉のところにちょっと顔を見せ、5~6年ぶりに実家を訪れた。実家、実家 。

 今、実家と呼んでいた家は、兄たちの建て替えた家で。以前ブーちゃんの小屋のあったところは埋め立てられ庭の一部分になり、庭の雰囲気も変わっている。義姉とは元の家で3年間位同居していた。当時義姉は県職員として水産試験場や農業普及所で働いていて、わたしは地元の商工会補助員として勤務、兄はその頃は町の総務課だったかに勤務、残業などほとんどない私が平日の夕食の支度をする係りに何時しか治まっていた。その間、気まずい雰囲気も味わったこともなかっ たから、まずまずの義姉妹関係だ

ったと認識している。お互いに演じていたのか? そんなはずはない。

  

 兄たちに長男が誕生して3か月後のころ、わたしは結婚して実家を後にした。それから50余年が過ぎている。生まれた家を実家と呼ぶと言うなら、生まれた家が東京の永福町で、その家は空襲で焼失してしまったから、両親も兄も亡きあとは、なおのこと実家と呼ぶ資格も失せるのかも知れなくて、兄の妻、義姉亡きあとは、次世代に移るからなおさらだ。女三界に家無しとは正しくこのことだろか。

  
  隣の本家のしょうちゃんに、挨拶してから、たくさんの蕾をつけた大きな桜の木ある庭を後に、また花子さんの車で、今度は祖母と両親、兄と義姉のお墓を参った。お寺の庭には白梅がすんと伸びた枝に清らかに咲いていた。

そこから、また花子さんの車で、彼女の実家へと移動しながら、途中にある茂木家のお墓に参った。その頃も、コロナ騒ぎと体調不振が重なって、従兄の昭一さんの告別式にも他の行事もでていない。やっと来ることができたのだと言い訳をした。その墓所からは、花子さんと母の実家が、連なる畑の向こうに見える。高さ2.5メートルぐらいはあるだろう槙の生垣もそのままある。墓参のあと、かよちゃんは花子さんの車でさきに行って、私だけ、そこから歩いた。子供の頃、家から母の実家まは徒歩か、自転車。母について歩いて来た時に、あの生け垣が見えてきたときの ほっとした気持ちを思い出して、再現してみたかったのだ。曲がり角の家の庭に、たわわに実をつけている黄金の果実を撮ったりいぬふぐりを愛でながら歩いた。あらっ、と思うぐらい歩くことも平気だった。わずか10分か15分の距離ではあるが、歩く自信にもつながっていく。

  

 従兄亡きあとの、主、昭栄さんも待っていてくれて、少し話した後、昼食は抜きと言う彼も巻き込み、4人で食事にでかけた。今度の運転手さんは昭栄さんで、お蕎麦屋さんまでの道を、北浦に沿って走ってくれて、少し、風で揺らぐ波間に浮かんでいる水鳥たちにを風景に入れながら お蕎麦屋さんまでドライブ。北浦の一望できる所に そのお蕎麦屋さんはあった。松月と言う昔からあったお蕎麦屋さんが今のところに移転して、あのころ頃の店主さんは亡くなったのだと聞いた。まる顔でいつも笑顔だった在りし日の店主さんのことが浮かんできた。カレーそばと言う二人を天ぷらそばへと誘惑、4人で天ぷらそばを注文して 昭栄さんが湯葉さしもと頼んでくれた。天ぷらのエビの大きかったこと美味しかったこと。湯葉さしをビールのお供にと思いを巡らすなどと言うことは、とても難題だけれど 温かいおそばの箸休めには最高だった。北浦で美味しい湯葉も食べられる。なんとハイカラになったことか。兄の、あそこから眺める北浦が一番だ、と言った場所は、たしかこの少し上の方かも知れない などと思いは突進する。結局、全て、ご馳走になって、帰路は 又別の道を走ってくれて 茂木家に戻り、今度は、庭の端々から部屋の中まで探検して、じいちゃんばあちゃん、早世した伯父さんと長生きしてくれた伯母さんと、昭一さん夫妻の遺影を眺めたりしながら、この世にいない人たちの四方山話に花が咲いた。大体が共通した話題だったが、花子さんの話してくれた両親にまつわる話には思わず噴き出してしまった。両親が結婚してまだ間もないころ、花子さんの母ひさ子さんのお父さんが、村長さんになれたことを話したら、昭一さんは、村長なんて誰でもなれる。と言ったそうだ。そとき、久子さんは、見えないところで、左右の手を固く握りしめてうーっと力を込めて悔しさを晴らしていたのだと話してくれた。これ美味しいでしょう。と聞くと、そうでもないな。とも答えたのだと。そのたびに、久子さんは見えないところで両の手を固くに切りしめて、悔しさと一人で戦っていたのだ。昭一さんの、そんな光景は想像できる。けれど、入院していたお姉ちゃん(花子さん姉弟の母さん)を見舞った時、ご主人は?って聞いたら、昭一さん、良い人なの。と話していた。その不思議・・・。築150年の歴史を持つ家にはそこで暮らしていた人たちのたくさんのまだ知らない物語が秘められていそうだ。次女としてその家に生まれた母は、閑居ばあちゃんに可愛がられて育ったのだと聞いている。

  
 義姉の訃報を聞いてから、ずっと胸のふくらみの中心にいたもやもやも癒え、また花子さんに送られて、潮来から帰路の高速バスにのった。朝6時過ぎに出て、帰宅したのは午後5時半過ぎ とても長くも、アッと言う間の一日だった様にも感じた日。

 東京からは、東海道線で小田原行きの電車に乗り、横浜で降り立つと 目の前をスーッと冷たい風が通り過ぎていった。車内は、往く時と似ていて、混雑もしないし 丁度いい具合と感じた。
  
 日中は、この春一番ぐらいに暖かくって穏やかで

コロナのことも忘れそうになってしまいそうな日和で

彼の地で、今、本当に戦争が起きていること
ひとりで泣きながら歩いていたあの子のことも

忘れてしまいそうだで怖い。

どうしてそんなこと平気な顔して

成すのか分からない。

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