みやうちふみこのブログ

日々の思い こぼれないように 

終戦日によせて

 

    もうおしまい!       みやうちふみこ

 

永福町にあったというわたしの生まれた家が 空襲で焼けてしまったと知ったのは 何歳の頃だったろう。二人の姉は学童疎開で長野に 5歳違いの兄は母の実家茨城に 父は結核飯田橋の警察病院に入院していたと 半分は母から 半分は何年かかけて なんとなくの 状況判断で知ったような 気がする。

その時 祖母とわたしと母は どうしたのだろ。聞くと母は ゆっくりと目を閉じ 両手の平を胸のところでパンパンとしながら「もうおしまい。」と言った。いつ聞いても同じ「もうおしまい。」パンパンだった。 

「おっぱいを飲んでいてもね お父さんのところに行ってくるねって言うと “ぼういん”って すぐおっぱい離してくれたのよ。」とは 父の記憶のないものへ伝えたかったことだろう。

4歳の夏父は死んだ。「戦争中は食べるものがなくって 栄養のあるもの食べさてあげられなかったの。」そう言っては 毎朝 鶏の鳴くのを待って 物置の軒下にあった鶏小屋に行って 大事そうに卵を手に 箸の先で殻の上部にトントンと穴をあけてして「「は~い」と手渡してくれた母。兄はその穴から美味しそうに飲んでいたけれど「お薬よ。」とすすめられても 生卵、私は今も苦手。あの頃から毎夏 ぬれ縁の向こう側に朝顔を咲かせていた母。“病床から、父は、その花を何回ながめたのだろう。今になって、母があの場所に毎年、朝顔を咲かせていたわけが分かって来たような気がする。”(“追記”)

 寧ろ*(むしろ)を広げた 秋の陽のさす庭いっぱいに 麦か籾だったかの干してある縁先で 祖母と母の帰りを待っていた時の記憶 髪を後ろに細長くまとめた母が 細長く丸めた風呂敷を両手でぎゅっと握りしめながら「途中の駅で汽車が焼けちゃったんだって 焼夷弾が落ちて。」と戻ってきた時の母。学童疎開先から送った姉たちの荷物。父の死よりまえのこと。目の前をすいすい飛んで むしろの縁に羽根を休め おっぽを並べ 日向ぼっこしていた赤とんぼ。

九十三才まで生きてくれた母 何日か前 あの日のことを聞いた時も「もうおしまい!と「パンパン」しながらほほえんだ。四十余年勤めた町の副町長に就任 半年近くして五行の遺書を遺して自死した兄。“父との思い出は 井之頭公園で父の両の手でぶらぶらしてもらったことと 言っていた。あの時、おやじもう、しんどかったんだろうなあ、とも。”    

戦争は知らないみたいに今を生きている二人の姉。聞いたことは 学童疎開の時中耳炎で通院する道中の寒かったと言う次姉の話と 上の姉が大学のスクーリングから戻ると歌っていた「・・身よりの骨うめし焼け土に 今は 白い花咲く ああ許すまじ 原爆を三度許すまじ 原爆を・。」という歌詞の歌ぐらい。        

わたしは何をしただろう 秋の陽が今日もまばゆい。

   

    ”寧ろ(むしろ)・わらなどを編んで作った敷物。”

 

                    2016年9月・竹山団地にて

      2016年「詩と思想12月号」詩作品の中に掲載されたもの。

      “ ”の部分は追記。

                     2121年8月16日

 

デデッポポーデデポポーが、今日はとてもよく鳴いている。

ほら、また…