みやうちふみこのブログ

日々の思い こぼれないように 

夕陽の絵いかがですか?

 

枇杷


  はればれの今日は、シーツを洗ってお布団を干した。

 くもりあめくもりあめの昨日は頼りにしていたニュースを待つのも限界と感じて

 お休みの人と一緒に足を使って新天地を探しに出かけてきた。はじめは、何をどうしたらいいのか 半分、遊びごごちで乗った電車は急行、下りるはずの駅通過、往ったり来りして下りた駅のそばの公園をぶらぶらいくと池があって鯉に餌を上げている人とはとに餌をやる人などがいても看板に出ている水鳥達はたくさん生えている葦の間ででも眠っていたのだろうか、、。、その先には、ヤマボウシが満開で、手前にはおおきな合歓木、夏が来て花の咲くころ、きっと来てみたいと、思った。少し肌寒の日だった。

駅のそば、小さな建物の中のお店の窓に張りめぐらされている広告を眺め、、ため息をつき、又次の駅へ、。おそるおそる、張り紙の隙間から中をのぞく。やっと、、その隙間からどうぞという感じの アイコンタクトをいいことに、昼食の時間を略奪してしまった。3軒め、斜め前方にうっすら夕日の 絵。いかがですか?

多分、多分だけれど、部屋に夕日の絵を飾れるかもしれない。

そのために、夏のような日差しの中出かけた人ありて、

今日はあわただしいお休みだった。

帰り際、えきちかの歩道に散りばめられていた星屑、ここよと呼ばれたような気がした。枇杷の熟したあの色も見たい。

 

 4月13日(2023年)

 4月13日、今日は 3女のお誕生日!

あ、私のお誕生日がきていた・・・!

今朝、本人がそうおっしゃっていたので間違いはない。 忘れていたわけでもないのだけれどぼ~っとしていたのかもしれない。振り返れば、お誕生日の日は 毎年、朝起きて顔を合わせて一番に「お誕生日おめでとう」ってわたしの方から言っていたのは確かな記憶。その習慣が、今朝はどこかへ行ってしまっていたらしい。ただ どこかへ行ってしまっていただけなので、慌てず、おめでとう!と言った。

まだ 昨日の疲れがそのまま残っているらしい体。昨日から注意報が出ていた大陸からの黄砂飛来。よどんだ空を見上げながら 10時過ぎ洗濯物をベランダに干した。

  

昨日は午前中かかりつけの病院へ2か月毎の診察とお薬貰いに。

どこの病院でもなのだろうか、保健証がマイナンバーカードで対応できる(する)ようになっていた。ではでは、と、マイナンバーカードを指定の所にセットした筈が、本人確認が出来ないとのサイン。見れば、古い古い某ホテルの会員証だった。あら、もうイヤ、とひとり言をつぶやいていたら、そばにいた人が「なんか違うと思っ見ていたのよ、間違いは誰にもある!」とひとり言のようにも慰めのようにも聞こえる言葉をかけてくれた。

良いのか悪いのか、これで保険証は必要なくなったわけだけれど、これは患者の為のものではないように思う。近くで誰かが、「幾らか安くなるの?」「少しは・・」受付の方との会話が聞こえてきた。

今まではしなかった、備え付けの血圧測定器で血圧を測った。病院へ行く日は、いつも160とか170とかの値になる。なので、これからは 病院で計ることにしたのだ。案の定150と?の数字が印刷されて出てきた。それを看護師さんに渡すことで、あれこれ言い訳をしないでもすむ。

その時、心電図をとってほしい旨を伝えた。今思えば、それは 主治医の判断を下すことで患者が先に要求することではなかったのかもしれない。

でも、私がどんなに普通とは思えない、異常を話しても・・ 真に受け止めてくださっているとは思えない応対に、前の診察日時には「先生に話してもは分からないのよ。」とくり返し言ってしまったので、みずから申し出て安心したかったのだが、先生曰く、

「こんなもので、正しいデーターはとれない、何にもならない。病気探ししますか?」

と、問われるとひるんでしまう。「40代での発症したそれは、治ることはない。年を重ねてくると再発する、、そこから脳梗塞とか併発しやすいものあるのだけれど・・・」

要するに、今の元気を今の治療法で維持できるだけして、そのあとは、運を天に任せる、、先生は、そんな私の気持ちをわかって下さっているから、私の我儘にも、応えて

くださるのだと思う。「それらは加齢の為でもある」とは、一向に理解していない私なのだ。そうなんだ、とは納得はするのだけれど、なかなか、気持ちが付いていかないのである。先生は、その辺のことに気が付いていて、いろいろおっしゃるのだと思う。おかしな話だけれど 先生には分からない。と言いながら、私は、先生を信頼しているのだと思う。あれこれ言って、落ち着いた投薬の選択。処方していただいた2か月分の薬を薬屋さんで受け取り、ぶらぶら スーパーへ。

お目当ての焼き芋とリンゴとイチゴと最近また時々飲むようになったコーヒーの粉と

他にセローリーとトマトと何んだったか、重いと感じない程度のもの。    リンゴも

1個しか買わなかった。お昼は、焼き芋と昨日の残りのたけのこご飯。そのあと

3時ごろまで眠って、トイレに起きたあと、夕飯の下ごしらえをして、また、眠っていた。気が付くと時計の針はごご6時を過ぎていた。こんな日に限って、早く帰ってくるかも。そう思ってもなかなか起き上がれない。6時45分すぎ、もう限界、急いで起きて炊飯器にスイッチを入れると同時位に玄関ドアの開く音がした。予感は的中・・・。

それでも、下準備をしておいたので、肉じゃがと酢の物とオクラをトッピングした山芋月見&油揚げとねぎの味噌汁。一緒の食事はにぎやかだ。と言っても、何話したんだっけ? 後かたずけはお任せして、入浴後又ねむった。一度、振動で目を覚まし、また、と思ったのは覚えているけど朝まで熟睡。生ごみをそのままにしてしまった夢を見た。生ごみを出す日は明日金曜日、良かった。

くすんだ色してきた台布きんが真っ白になっていた。
この数日、よく眠れる。今日も静かだ。

敬遠していた筈の飛行機の飛ぶ音も、今日は、優しく聞こえてくる。

 

潮来の姉から、「かよちゃん、お誕生日おめでとう」の電話があった。
なぜか、いつも本人にでは無くて、私にある。
ずっとお茶を断っていたと聞いた記憶も忘れそうだ。

東日本大震災後12年

今ごろ、あの年も拳が満開だった

昨日もkayoの休日だったのに、地震に、朝早く起こされた。

と言っても、その前から、上半身左側にどんどんどんと震動を感じ、左腕、肘から指先までがしびれるような感じがして何度も目をさましていた。夢だったのだろうか?

 
昨日は、東日本大震災の起きた日から12年(2011年3月11日))。発災時刻、午後2時46分。
 
あの当時は、北八朔に住んでいて、ちょうどkayoと一緒に中山郵便局に出かけた途中、JR横浜線踏切の50メートル手前辺りで、地面がぐらぐらっとゆれはじめ電線が大きく

ブラーンブラーン揺れて、あちこちの建物から人が出てきて、その異様さに大変を感じたのを記憶している。おさまるのを待ってやっと郵便局に辿り着いたら、システム障害の為・・いつ直るか分からないとのこと。仕方なく帰路についたのだったが、気持ちが悪いというkayoを休ませようとするとことも、すべて停電で営業はお休みとの張り紙に、ゆっくりゆっくり歩いて帰ってきたのだった。そして、テレビをつけて、その大事を知ったのだった。

 

その頃は、大家さんの2階に住んでいた。随分ゆれたろうと思う。

足音で玄関まで跳び出してきてカギを開けるのも待てないようにニャーニャー鳴いていたミルフイーはびしょぬれだった。花瓶が部屋に転がって周囲も水浸し、本棚の本が飛び出していた。大家さんが、怖かったでしょう、と声をかけてくれた。きっと、その部屋にいたら、もう そこに住むのは怖いと思ったかもしれない。

 

その年の1月、四谷のルーニーで写真展をした時だった。寺山修司記念館の「家出のするめ」とその頃はまだ季刊誌だった「ココア共和国」を、お土産に、あきは書館の秋亜綺羅さんが 本当に写真展を見に来てくださって、2か月ぐらい後だったろうか。本当に、といゆうのは、そのころ書いていたブログで、たまたま出会って、写真展見に来てくださることになってはいたのだったが、仙台から、無名の写真家の写真展見に来てくださるなんて、本当だろうか? 正直、私は、そんな思いの中にいたのだった。

被災から数日後、反対に、安否を気遣ってくださるメールが秋さんから届いた。メールには、その日、従業員を車で送った時、街は真っ暗で、空の星だけがとても輝いていたと、その異様さを伝えてきてくれたのだった。あれからもう12年も経ったのだ。

 

あれから2度引っ越して、、今、また転居を考えている。理由は二つ。一方が解決しても、もう一方のkayoの通勤時間を今のままにはできない。時間をかけても真剣に考えなければならない。昨日と今日と、なんとなくkayoの様子がいつもと違って、私もなんか感化されてしまった感じの二日間だったけれど、、もしかしたらそんなことも 無意識にせよ要因になっていたのかもしれない。

 

今朝は、耳鼻科に行って、また検査をしてもらうこと。を二人で確認し合い、
その時は、一人で行くよ!と 元気そうな顔を見せ 出勤して行った。 

今も、とーくで、どんどんどんどんなっている。気のせいなのだろうか?

これからの事など、いろいろな課題が 時折、二人の気持ちをふさいだりするここ頃。

一つずつクリアしつつ 半年一年かけても これからの道しるべを見つけよう。

お題「10万円」


 

浜文庫にて

 浜文庫で 鈴木 志郎康さんの作品を読んでいたら、うとうととしてしまった。

「母のことを」とか「ぼくはこの山が好きだ」とか「あかちゃん」「紫陽花の花を数える」とか 庭のヘクそカズラの葉が黄色く 紅葉しているのを遠くから見ると花のように見えると か 自然への、眼差しがすごい。眼差しから詩は生まれる・・・。

へそカズラ・・について調べてみたら、やはり子供の頃よく見かけた植物に似ている。蔓になって垣根なんかにからんで小さなベルみたいな白い花で真ん中がえんじ色だったか可愛い花なのに、近寄ると青臭いような異様な匂いがして遠くで眺めるだけの花だった。そんなところが私とはとても違う。(今年の9月8日にお亡くなったそうです)

今、きずいたのだけれど、三角みづ紀先生も、鈴木 志郎康さんのことをどこかに書いていたように思う。

「3月10日」と言う詩には昭和20年3月10日にはアメリカ空軍による東京空襲のことが

書かれていた。谷川俊太郎さんも、東京の空襲のことを書いていた。家は焼け残った

とも。もしかしたら、鈴木志郎康の家が空襲で焼かれてしまった時と、永福町の私の

家が焼かれた日は同じ日だったのだろうか。、昭和20年3月10日は、まだわたしは3才

になってすぐの頃。記憶は何もない。母の実家に預けられていたのだろうか。従兄のお嫁さんのあとを、「おねいちゃんおねいちゃん」って泣きながらおいかけてきたの、とはよく聞かされた。
鈴木志郎康さんは、もしかしたら次姉か兄と近い年齢年かも知れない。兄はとは5歳違いで兄はその頃母の実家茨城に疎開しいて、葛飾に住んでいた同い年の従妹と一緒に、地元の小学校へ通っていたらしい。姉たち二人は長野のお寺さんに疎開していたと聞いた。姉たちから、その頃の話はなにも聞いていない。次姉が中耳炎になてお医者さんに通う時寒くってね、と言っていたことを聞いたぐらいだ。その頃のことを、母に聞こうとすると、決まって、もうおしまい!と言って胸のところで手を合わせパンパンとした。そのころのことを書いた「もうおしまい!」と言う詩がある。詩集に載せたかったのだけれど、どうしてか、、ボツになった。その中に出てくる、原爆の歌をのせるのには 音楽協会の許可をもらうのに2000円必要だと言うのでわかりました」と返事しておいたのになぜか、載せないことになって、そのことはとても今も悔やんでいる。 最終的に決めるのは私なのだから。
 「麦踏み」と言う詩も兄と母と3人の思い出の詩。あちこちバラバラになっている詩たちを一緒にしてしてあげないと、家族ががバラバラと似ている。かな?・・・なんて思っていたら、午後7時過ぎ。

夕食に支度、急がないと。最近、よくヘリコプターが団地の上を右往左往飛んでいるけど、どうしてだろう。音のするたび空を見上げていると何もできない、、、なんて嘆いている。




 

 杖

 外出した翌日は私の身体なのに まるで他の人の身体みたいに自由が利かない。

昨日(10月12日)は、3か月ぶりに竹山病院へ。

主治医の中島先生に、その間の体調と常時投薬を受けている薬とのかかわりに関して、私見を聞いていただく。

今年の4月頃、左足首に蚊に刺されたようなかゆみを感じたのが、今思うと、7月頃から頻繁に続いたかゆみを伴う発疹と関係があるのではと思い始めたのが、9月頃だった。左足首のかゆみは、治まりそうでなかなか治まらないので、その3か月後、とても気になってきて、竹山病院の皮膚科を受診し、抗生物質の塗り薬を処方していただいて、1週間ほどで寛治したと記憶している。その時はまだ、服用中の薬の副作用との関連は全く気いしていなかった。それから、頻繁に、今度は皮膚の柔らかい部分に、赤く

虫刺されのよな跡がみられるようになって、かゆくってもかゆみ止めでは効き目がなく、夜中にものすごい痒みで目が覚めた。抗生物質の塗り薬をつけると3日か4日で直るのを突き止めた。それから何度か、試してみた。その薬を服用しない日、と、服用した日の実験。数回くり返し、結果は、服用しないと虫刺されのような跡は生じなくなった。私見として先生に話せたのも、そんな道筋をつけたからこそ、話せたのだと思う(アトルバスタチン錠10mg「DSEP」就寝時1錠。血液中のコレステロールを減らす薬。)

結果、やはり、必要な薬なので、別の薬に変えていただくことに決定。

同様の薬が6種あるので、不安が出たら、又その時々の対応をとる、こととして、

今の所、循環器内科に関しては、今服用している薬たちと仲良く付き合っていくこと。

との、先生との話し合いがもてて安心が得られた。

 

あとは、整形外科で投薬していただいているリリカに関して、今、また 試み中。

来週の火曜日でお薬が無くなる。  

 

薬局によってお薬をいただいてから、付き添ってくれたOちゃんの勧めで、バス電車を乗り継ぎ杖を買いに京急百貨店まで足をのばす。約2週間ぶりの外出。

見るだけよ!と言って出かけたのに、買っておいてよ!と切望されて、買った杖。義従姉にも、ころんで骨折したら大変よ、とも助言されていたし、こらからは、転ばないように、杖に支えられて歩きましょう。

 おなじフロアにあった、八重洲ブックセンター上大岡店に立ち寄る。広い店内をうろうろ、疲れを感じないから不思議。それにしても、本屋さんのにおいっていいなぁ、といつも思う。詩集は、谷川俊太郎ぞろい。茨木のり子とか、石垣りんとか。

 帰ったら、アマゾンに注文した三角みづ紀の英語版、「隣人のいない部屋」がイギリス(?)の発送元から届いていた。予定では26日ごろと思っていたのにとても早く届いた。先ずは、英語バージョンとならべて、雰囲気を感じながら、日本語版をもう一度味わいながら読んでみようと思う。この詩集が出版されたころ秋さんが「三角みづ紀の隣人のいない部屋」あんな詩が書けちゃうんだから、読んでみなよ」って話していたことがあったなぁ、なんて ぼやっとした記憶を思い起こしている。

 出かける時ぽつぽつ降りだした雨。帰りも又バスを降りすぐそこまで来て、またぽっつんぽっつんぽっつん降ってきて、折り畳みの傘広げたら、杖の色とそっくりだった。


  
  

10日ぶりの外出

7月26日
大きな雨粒のふる中お使いに行った。

濡れた空気が気持ち良くて

もう十日ぐらい外に出なかったことがまるで嘘みたい。

団地の中の近道を行くと水があふれて靴底は完全に水没

少しの高みに足を運びながら通り過ぎる。よろよろしながら。
雨の日に限ってその道の方に行ってしまうのが不思議だ。

商店街には花火大会に関してのお知らせや注意事項の記されたポスターが目に入る。

池の中には、仕掛け花火の下準備のような風景も見られた。ここに来て6回目の夏、この2年ぐらいはコロナのために、開催できなかったにしても、いつも音だけを聞いて過ごしていたのだけれど、今年は、どこか花火の見える場所を見つけて静かに花火だけを観賞したいとも思う。どうなるか。Oちゃんは、どうやら出勤。間に合うだろうか。

 

商店街の中にある、横浜銀行のATMで、来月早々引き落としのあるカード支払いの不足分を引き落とし 郵貯へ入金、なんとか今月も無事クリア。 良かった!

そして今日は、Oちゃんがお休みなので、食料品の買い出し日。

食料品の値上がりは痛い。レジで計算された金額はカード払い。
レシートを見ながら、この週末、あるものあるものあるもので過ごしてきたご褒美ね、

なんて言い訳しながら膨らんだ出費を正当化する。

帰りは、雨も小粒になっていて 涼しくって 鶯の声も透明で美しかった。しかし、一歩部屋の入るともうエアコンなしでは居られなかった。

 

昨日もだったっけれど、スマホに、今、菊池市行っている長女から電話があったような跡を見つけたのだけれど メールの着信があった。やはり我が家ではメールの方が確実有効なのである。

熊本県菊池市は長女の夫の郷里。今回の帰省は義息子の弟さんの四十九日、納骨の日のための帰省。ちょうど四十九日前のその日は、長女の夫は仕事でブラジルへ発った日だったとのことで、悲報は、帰国を待って1か月後にもたらされたのだった。

甥Mの死より2週間も前になる。何も知らない私たちは、甥Mだけの死を悲しんでいたわけで、申し訳なかったような複雑な気持ちになるのだがこれも仕方のないことだった。甥Mは、10年余り闘病していて迎えた死。彼は、心臓発作による突然の死。違いがあっても命の尊さは一緒。けれど、そのショック度は後者の場合の方が強烈だと思う。

長男夫婦に告げなかった1か月間、ご両親は、そことをを支えに過ごしてきたのではないのだろうか。苦肉にも、事実を受け止めるのに必要な時間にもなったのではないのだろうか。2月には、義姉の死。   

合掌!

このリンドウをみて、Oちゃんがつぶやくように言った。
この花、「きつねの嫁入り」のお話に出てきたね・・。
そうだった?

「 小沢沙織さんのリオ便り」

午後1時~2時の1時間、アパレシダ―企画、ZooMよる「 小沢沙織さんのリオ便り」に参加させていただいた。
小沢沙織さんとは2012年ごろアパレシダ―でお会いした記憶がある。間違い出なかったらアパレシダ―でブラジル音楽演奏中の女性の方を撮らせていただいたたことがある。
その時の女の方が小沢沙織さんだったと思う。
あまり明るくない室内で自然光撮影、経験不足もあって余り上手く撮れ無かったけれど、あの頃から人を撮ることが好きだったのだとあらためて思う。
あの時の写真、頭の中にはしっかり焼き付いているのだけれど
ネガ探したらあるだろうか、廃棄してしまった中かも知れない。
そういえば、つい先ごろの、、マーちゃんのお葬式の遺影は 
10数年前、結婚披露宴の時、わたしがデジカメで撮った写真だった。
10年前、あの頃は日本に住んでいらして 新婚さんで、洋裁など習っていたのは記憶違いだろうか。いつの間にか リオ、ブラジルで暮らして10年が過ぎている。日本人とブラジル人の違うところは、
日本人は 「考える」暮らしで
ブラジル人は 「感じる」生活なのだという。
それまで、警察官の印象をあまりよく思っていなくって、たまたま、リオオリンピックの前にブラジルの警察官に日本語を教える機会がありその時始めて警察官への偏見が消えたと語ってくれたことがとても印象的だったと言うか救われた思いがした。
反省として、わたしが参加したことで主催者側になにか?ご迷惑をおかけしてしまったようにも感じている。それは、感じなくもなかったけれど、だれが参加していようが見ていようがありのままを見せて欲しい。
1回目のリオだより、助け合いのこころもあふれ、試行錯誤感もあふれていてとても良かったです!
いつもは午睡の時間、多少見逃してしまったところもあるやかも。録画も届くとおっしゃっていたので楽しみ。
 
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