みやうちふみこのブログ

日々の思い こぼれないように 

浜文庫にて

 浜文庫で 鈴木 志郎康さんの作品を読んでいたら、うとうととしてしまった。

「母のことを」とか「ぼくはこの山が好きだ」とか「あかちゃん」「紫陽花の花を数える」とか 庭のヘクそカズラの葉が黄色く 紅葉しているのを遠くから見ると花のように見えると か 自然への、眼差しがすごい。眼差しから詩は生まれる・・・。

へそカズラ・・について調べてみたら、やはり子供の頃よく見かけた植物に似ている。蔓になって垣根なんかにからんで小さなベルみたいな白い花で真ん中がえんじ色だったか可愛い花なのに、近寄ると青臭いような異様な匂いがして遠くで眺めるだけの花だった。そんなところが私とはとても違う。(今年の9月8日にお亡くなったそうです)

今、きずいたのだけれど、三角みづ紀先生も、鈴木 志郎康さんのことをどこかに書いていたように思う。

「3月10日」と言う詩には昭和20年3月10日にはアメリカ空軍による東京空襲のことが

書かれていた。谷川俊太郎さんも、東京の空襲のことを書いていた。家は焼け残った

とも。もしかしたら、鈴木志郎康の家が空襲で焼かれてしまった時と、永福町の私の

家が焼かれた日は同じ日だったのだろうか。、昭和20年3月10日は、まだわたしは3才

になってすぐの頃。記憶は何もない。母の実家に預けられていたのだろうか。従兄のお嫁さんのあとを、「おねいちゃんおねいちゃん」って泣きながらおいかけてきたの、とはよく聞かされた。
鈴木志郎康さんは、もしかしたら次姉か兄と近い年齢年かも知れない。兄はとは5歳違いで兄はその頃母の実家茨城に疎開しいて、葛飾に住んでいた同い年の従妹と一緒に、地元の小学校へ通っていたらしい。姉たち二人は長野のお寺さんに疎開していたと聞いた。姉たちから、その頃の話はなにも聞いていない。次姉が中耳炎になてお医者さんに通う時寒くってね、と言っていたことを聞いたぐらいだ。その頃のことを、母に聞こうとすると、決まって、もうおしまい!と言って胸のところで手を合わせパンパンとした。そのころのことを書いた「もうおしまい!」と言う詩がある。詩集に載せたかったのだけれど、どうしてか、、ボツになった。その中に出てくる、原爆の歌をのせるのには 音楽協会の許可をもらうのに2000円必要だと言うのでわかりました」と返事しておいたのになぜか、載せないことになって、そのことはとても今も悔やんでいる。 最終的に決めるのは私なのだから。
 「麦踏み」と言う詩も兄と母と3人の思い出の詩。あちこちバラバラになっている詩たちを一緒にしてしてあげないと、家族ががバラバラと似ている。かな?・・・なんて思っていたら、午後7時過ぎ。

夕食に支度、急がないと。最近、よくヘリコプターが団地の上を右往左往飛んでいるけど、どうしてだろう。音のするたび空を見上げていると何もできない、、、なんて嘆いている。