みやうちふみこのブログ

日々の思い こぼれないように 

本当の名前(タイトル・ 岡島弘子詩集・洋裁師の恋より)

 

    親子5人で最後に住んでいたマンションは、千葉県S市内団地

  の11階建ての10階。22件が一つの建物に暮していた
  のっぽな建物。そこに移り住んだのは1994年春だっ
  たと思う。
  地震の時はゆ~らゆ~らと揺れた。
  道路の向こうは公園、公園の向こうは貯水池が川のように
  長く伸びて、春になると周囲は桜で満開になった。
  駅まで3分(?)・窓からは小学校、中学校が見渡せ、市役所・

  図書館・病院も両手をのばしてぐるりと回るとすべて手の届く範囲、

  と言っても良いぐらい好立地だった。

  そろそろ美味しい”なし”が出来る頃だ。
  
  そこから一番に羽ばたいて一人暮らしをはじめたのが次女。
  次が、小学4年生から高校時代は戸建ての団地に暮し、大学
  入学から卒業まで寮に暮していた長女が 大学卒業後何年か
  をそこからOLとして通勤、、間もなく一人暮らしをはじめ、
  彼女はその後結婚、、現在に至るのだけれど・・。
  
  そのころはまだ、駅の近くのあちこちに空き地があって、

  ヒバリが鳴いたり空き地に咲いた花摘みなどをしたのを思い出す。

  それまで何度も移り住んだけれど、一生の住処として、わたしの

  お気に入りで選んだのは唯一その住処だけだ。(その地も、3年後

  位に離婚届を提出に行ったときは、周囲にマンションなどが建ち並

  で、まるで感じが変ってはいたけれど)
  
  長女が結婚し次女は戻る気配もないまま、kayoと夫だった人とわたしと
  3人での暮らしは一見平穏そうでもあり見えた。
  
  結局kayoは、窓から見渡せる中学校への転校は担任の先生の意向で一旦
  認められたものの・校長・教頭・教育委員会の意向で半ば強制的に、、
  擁護学校への転校を強いられ、擁護学校へ席を移し、週1回だったか2
  回だったか、を擁護学校から先生が見えて2時間ぐらいだったろうか、
  kayoと向き合っての授業(?)を一年間続けて、養護中学の卒業証書を
  授与したのだった。あの頃は、、そんな時代だったのだと言うには哀し
  すぎるけれど、不登校児が問題化されていたころで、休学は認められな
  いころだった。1994年ごろのことだったと思う。
  
  そのころのわたしの名前は、夫だった人の名字のついた名前が本当の名前
  だった。それから11年後の2005年3月一見穏やかそうに見えたその
  暮らしをそこに置いたまま別居。2007年4月調停離婚。37年の結婚
  生活に終止符、その時点で戸籍も両親の住んでいた住所番地に移し、わた
  しの名前は生まれた時 両親から授かった名前に戻った。なので、その間
  に出版した写真集は、そのころの本当の名前で出版されている。その後出
  版した詩集は、両親の居住していた住所番地から、現在住んでいるところ
  に余儀なく移動。と同時にわたしの本当の名前は、なんとなく不安定さを
  無意識ながら感じはじめていたのだと思う。それは、詩集「カバの本籍」
  の著者名を写真集とは異なる名前で出版したことで、はっきり意識した
  ことになるのだけれど、その名前が、一番心地良く、わたしらしい名前
  だと心底思い始めたのは最近のことだ。それには詩をこれから命のある限
  り続けることであるとも言えそうだ。ほんとうのわたしであるためにも

  そうしようと心する作今である。