みやうちふみこのブログ

日々の思い こぼれないように 

不可解な日々、思いから抜け出すために

長女からの不可解なメールがとどいた日から、ずっと不可解な気持ちにとりつかれている。ことは、20年2月9日夜の、長女からのメールから始まった。「おとうさんが入院したというので、これから行ってきます。」このメールもすぐには気が付かずしばらくして、気が付いたのだが、kayoちゃんのところにも、同じようなメールが、わたしのところより先に届いていた。そのメールで病院は柏の慈恵医大病院といううことも分かった。その時点で、わたしの脳は、パニック状態。鼓動が高鳴りめまいがしてきた。一瞬にしてあの部屋でDVを受けていたあの頃に戻った。それは、想像もしていなかったことだった。あの日から、一週間。こうしていて書き始めるとまた、胸が苦しくなる。でもやはり書いておこうとと思う。

その翌々日、同じ横浜に住んでいながら急の時ぐらいしか会うことのない甥からメールが来た。ご無沙汰しております、お元気ですか?に始まって、突然ですが、昨夜の夜、下のメーセージが「廣瀬直美」さんからきました。

「藤野隆一さんの知り合いの廣瀬ですがお部屋に倒れているのがわかり救急車で柏市の慈恵医大に搬送されました。息子さんでしょうか。」字が違うので知らない方だと返事しました。字違いなので龍一おじさんではないですよね?諸処失礼かとは思ったのですが、気になったもので。というメールだった。その件に関して、は、くみからのメールのことを伝え、kayoちゃんのところに届いたメールで、柏の慈恵医大病院から白井市の聖仁会病院へ移ったとつたえた。わたしは、もう関われないしね。と言ったら、そうだね、に?マークがついていたけど、くみが行ったなら大丈夫だね、とも言ってくれたので流しておこう。それにしても、彼は、わたしの甥でもあるけれど、娘たちには従兄、彼と娘たちの父親とは従兄同士という切っても切れない縁。彼とて病を持つ体なのに、と、なんだか申し訳ない気持ちにもなって、その旨、長女にもメールで知らせたものの、肝心の、状況はわからないままだった。数日して、「聡お兄ちゃんには連絡しました」とメールはきたのだが、相変わらず肝心の状況は不明のまま、他人にはこれ以上のことは関係ないの、と言われれば次の言葉はない。けれど、入院したとのメールだけでは、半殺し状態。もう、関係ないの身なのだけれどと思いながら、具合はどうなの?と、長女にメールしたら、あっさり「ほとんど眠っている。声をかけると時々目を覚ますけれど長続きはしない。自力で呼吸できてるから急変はしないだろうと、お医者様は言っています。」とのメールが届いた。そのご、週末から、白井にいらないものなどかたずけに行ってきます。のメール。遠いし、お見舞いはいいから、かわりにウナギごちそうして。特上のウナギ予約しておいたから、なんて言ってきた。それは、別居ごろから、長女の提案してくれ恒例、お誕生月の人が食べたい、行きたいところに集合、顔を合わせるといううもの。バラバラに暮らす母娘4人が一年間で会える日。お誕生月が長女とわたしは1月。なので4人でも年3回。特に長女も次女もこの行事を大切にしていてくれる。振り返るともう15年も淡々と続いているのはそのおかげ。でも、会う前はすごく楽しみにしていくかよちゃんにもわたしにも、お姉さんたちとは、なぜか、なんとなくぱっと打ち解けない、境目みたいなものが横たわっているような、ぎこちない会食に終わるのだが、また、次回は楽しみにして出かけるのが不思議だ。

長女から、お父さんが入院したので、行ってきます。のメールだけしか届かない私に

とってもの数日はずっと不可解の日々だった。平静を装っていてもボロがでる。今、推敲中の原稿も、もう少しというところで、その先へと進まない。思い切って、古い手帳から、龍一さんの茅ヶ崎に住む弟Sさんのところへ電話をしたのは昨日のこと。私からは離婚のことも話してはいなかった。なので、最初のそっけない応答は覚悟していた。でも、話していくうちに打ち解けてくれたように思う。初めに警察から連絡を受けたのが、茅ヶ崎の弟さんのところだったことが分かった。そこから、長女へと連絡があったことがわかった。もしかしたら、叔父さんたちに知らせてないのかも、という少しの不安も解消した。そして、長女がテキパキものごろとを処理していく姿をみて、平塚の兄貴と、俺たちのすることはないね、と言ったんだ。ということを話してくれた。でも、思い切って電話をしたのは、必要な時には、アドバイスをしてあげてほしいとお願いしたかったからという気持ちもあった。娘たちにとってはお父さんであっても、お父さんには、二人の弟さんと妹さんがいるのだ、その関係は大切にしてほしいと思う。もう~と言ってももう~ではない。そう思うから。

不安に駆られることをじっと耐えて待つことは苦手。なのでこうして、それこそ、15年

音沙汰なくしていても、電話をしてしまったりするのだけれど、それで、長女が、,尻切れトンボのようなメールに、不可解さに悩まされているだろう母のことなど、気にする

時もないほど、精神的にも肉体的にも大変だったのが分かった。それ以前に、その状況が想像できなかった私は、そうとうのひがみやさんだったのだろうか?

遠くから、快復を願いながら、あらためて、離婚の重さを感じている。

ちょうど、次世代への時代。できることは、長女の言うように、着られなくなった洋服、いらないものは、捨ておいてね。後で困るから。との希望に沿うように心がけ、残りの人生を生きたい。あと、何年も何年も、、。